nade’s blog

未来の見えない学生(23)

相棒20 元日スペシャル感想 —デモの表現を巡って—

相棒20元日スペシャル感想

 

初めて相棒をリアルタイムで見たのは相棒tenの初回スペシャルだった。その前から過去シーズンの再放送を見ており、その世界観と鋭い切り口、そしてスリリングなストーリーが好きで、全話を見てないにせよ、かなり熱心に見てきた。

 

長年のファンなら分かると思うが、近年の相棒には、かつてのような覇気がない。今回の相棒20の元日スペシャルを見て、相棒ファンとして認識を改めなければならない、これまでのような見方ではよくないと感じたことがあったので、頭の中を整理するためにも文章化したいと思う。

 

〜目次〜〜〜〜〜〜

・相棒20元日スペシャルの感想

・太田さんのブログでの演出への言及

・相棒の制作力の低下

・今回の相棒の再評価

・その他

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・相棒20元日スペシャルの感想

 今回のスペシャルをリアルタイムで観ているとき、特に物語の序盤は話の進み方が平坦で、かつ細々と場面が移り変わることが続き、あまり面白くないと感じていた。ストーリーが淡々としており、次々に山場が訪れるというよりは、徐々に物語の核となる少年の背景が浮かび上がってくるという構図だった。通常回ならばこの描き方に違和感を感じないが、『相棒の元日スペシャル』であるならば、大量のエキストラと大掛かりなロケによる迫力のある映像を多少は期待していたので、少し残念でもあった。

 私は太田愛さんの脚本がとても好きだ。彼女はもともと社会派であった相棒というドラマに、さらなる新たな強い政治的な批評を取り入れ、かつそれをエンターテイメントとして仕上げるということを成し遂げた。しかし、このスペシャルを見ている最中、相棒の太田脚本で何度も繰り返されてきた構図、つまり弱者である子供と、その社会の弱者を作り出しておきながら無関心を装う与党の大物政治家、事件によって浮かび上がる歪に正当化された現在の日本社会が抱える格差という背景、がまた繰り返されるのだろうと思った。与党政治家が出てきた瞬間に悪人だと分かったし、子供が出てきた瞬間に何か問題を抱えているのだろうと思った。自己責任論批判もネオリベラリズム批判も、やっと本や新聞で論じられるようになってきたトピックだ。その意味で、既視感のあるストーリーであったことは確かだった。見終わった後も、何か物足りないと思ったことは事実だ。

 

・太田さんのブログでの演出への言及

 放送後、脚本を担当した太田愛さんが、自身のブログで、抗議デモのシーンは意図するものではなかったと述べ、大きな反響を読んだ。

ameblo.jp

 相棒の脚本家が、自身の個人ブログというツールで、自身の脚本が意図しない形で演出されたと苦言を呈するのは初めてではないか。これは、ある意味で大事件だと思った。

 私はドラマの世界には全く詳しくないが、太田さんもそのエントリーで書いているように、脚本と実際のセリフや演出が変更されることは良く起きることだと思う。相棒に限らず、脚本家の作り上げた世界観を一つも壊さずに映像化することはほとんどないのではないか。天候やロケ地、予算、役者のアドリブ、監督の直感…と様々な要因で、脚本と異なる演出・セリフになることは容易に想像できる。多くの脚本家はそれを不愉快に思うだろうが、それだけでは個人ブログによる抗議には発展しないだろう。だから、今回の問題は単に「脚本が勝手に変更されたこと」ではないと思う。

 問題は、脚本の描きだそうとした問題意識、それも政治的に日本社会の現状を批判するという強い問題意識が、『相棒』の制作に関わる人たちに共有されていなかったことではないか。少しでも、今回の脚本の意図、つまり非正規雇用という制度によって経済的格差が固定化されているという現状と、それを生み出した政治の責任を「個人の自己責任」というネオリベラリズムの幻想と妄想で覆い隠す与党の政治手法の問題を生々しく描き、かつ、少年たちの存在によって未来はより良くなるかもしれないという希望があることを提示する、太田脚本の理念を、他の関係者が共有していれば、あのようなデモの描き方をするという発想は生まれなかっただろう。

 デモは、直接的で、非常に重要な社会運動、強力な社会への抗議活動だ。デモには、市民の無意識に刷り込まれた社会的な不正義に、そして大多数が見過ごしかけている問題に、鮮烈な輪郭を与え、それを強力に社会に突きつける力がある。その過程で、多くの人は、デモによって自分が攻撃されたと思い、怯む。自身の知らない価値観を突きつけられ、これまで信じてきた社会的な基盤が虚構であると言われて、恐怖を感じない人はいない。多くの人はそれを見なかったことにし、ある人はそれを攻撃し、ある人はそれに賛同する。だが、デモを行う人々は、きっと社会や不正義の蔓延る社会制度を自分たちの力で変えることができると信じて、デモを行うのだろう。生身の身体によって行われる抗議活動は、それだけ公の機関によっても、市民によっても攻撃されるリスクが高いが、反対に社会に与えるインパクトも大きい。デモはやりきれない現実を突きつけるとともに、未来への希望を暗示している。だからこそ、デモを描くならば、もっとリアルに、そして丁寧に描いて欲しかった。現実の抗議活動が持つ力、変化をもたらす潜在的な可能性、そしてその強い政治性を無化するような演出は明らかに不適切だった。あの物語の文脈で抗議活動としてのデモを出すならば、監督と演出をする人々は、デモの持つ意味を十分に考えるべきだった。

 脚本の変更の意図は分からないし、できることなら権野監督側の意見も聞いてみたいが、もしその意図が、訴訟の背景を説明するとともに、デモの群衆を映像で表現して、緊張感や緊迫感を出すことならば、今回のようにデモ隊を面白おかしく描くことなく、大人数による抗議という場面を作ることはできたと思う。騒ぐデモ隊を冷静に眺める特命係の二人、という構図は、デモを、わがままを喚いているだけだと示す効果をもたらした。

 ただ、自分の中で、十分に言語化できないものがある。映像に出てきた、特に一番先頭に立っていたおばさんが、ヒステリックで大声で喚いているような演技をしていることは確かに悲しかった。太田さんも、「訴訟を起こした当事者である非正規の店舗のおばさんたちが、あのようにいきり立ったヒステリックな人々として描かれるとは思ってもいませんでした」と書いている。では、デモをする人々は、理路整然としているべきなのか?ドラマではバイアスがかかってヒステリックにされてしまったが、本来のデモはもっと論理的で冷静なのか? むしろ、抗議活動において、強い感情的な表現と攻撃的なメッセージ、怒り、大声、大人数、という要素は不可欠なものではないのか。今回の『相棒』の表現を批判する人が、デモがステレオタイプに描かれたことを批判するのと同時に、デモにおける様々な感情的でストレートな怒りの表現をステレオタイプだと言って否定するならば、それもまたデモの政治性を無化している。論理的な意見を重視して感情的な表現を蔑視する態度は、理不尽に発する人々の怒りや憤りを封じ込める言説に利用されてしまう危険がある。ヒステリック/論理的、感情的/冷静という二分法的な考え方が、今回の表現の評論や、現実のデモの批判に持ち込まれたら、それもまた問題なのではないか。

 繰り返すと、もちろん太田さんの脚本通りの映像、つまりデイリーハピネスの平社員が訴訟を起こした店員さんたちを支えるという場面も見てみたかった。だが、演出の意図や物語的な盛り上がりのために脚本を変更してデモを表現したこと自体は問題ではないと思う。とはいえ、もっとよく考えて演出すべきだった。ましてや、太田脚本の一貫したテーマと理念を他の作り手たちが共有しているならば、あのような真反対の効果をもたらす演出はされなかったのではないか。

 

・相棒の制作力の低下

 太田さんが、放送直後に自身のブログで説明をしたことは、やはり大事件だと思う。これまで、『相棒』においてそのようなことは無かったのではないか。(櫻井武晴氏降板の事件はあった…)だが、今回のことは長い『相棒』の歴史の中で偶然に起きた脚本家と製作陣の間の亀裂というよりも、『相棒』そのものの力の低下を示しているような気がしてならない。

 特に、今回のことは、脚本家と監督、プロデューサー、様々な関係者が連携し、同じ理念を共有して物語を作ることに失敗したことを示しているような気がする。最近の相棒を見ていて、昔の熱量や作り込んだ世界観がなくなっている気がする。本当のことは分からないが、エキストラが減っていることや、地味な話が増えたこと、お正月スペシャルが非常に淡々としていたことは、制作費や使えるリソースが減っているからではないかと思う。それによって、『相棒』は物語を作り込むことを徐々に諦めているのではないか。だからこそ、物語の核となる部分に関して、制作者たちの間に齟齬が生じるという今回の問題が生じているのではないか。

 これは反対に、これまでの『相棒』が、困難なことを成し遂げてきたことも示していると思う。太田脚本に限って言えば、昔から太田さんの脚本には直接的な政権批判と政治批判が含まれていた。当然、太田さんの脚本の完成度が高く、重くて暗いテーマを含みながらも、それをエンターテイメント性のあるドラマとして体現するということが脚本段階でできていたからこそ、描き出されたのであろう。だが、そのような痛烈な政治批判をも含むドラマを作り上げて世に出すには、よくできた脚本だけでなく、その世界観を十分に理解して再解釈し、映像として繊細に作り出す演出や、企画を通すドラマ制作者の対内的・対外的な政治力など、多くの人が、その物語の理念を共有し共に作り上げることが不可欠だ、ということを、この事件は露呈させたのではないか。

 もう一つ、『相棒』の出来は脚本に左右されると思われがちだが、今回の事件は実際には監督の判断が非常に重要だということを示したと思う。これまで、ストーリーについて、脚本家の名が取り上げられることはあれど、監督が取り上げられることは少なかった。良い脚本を、監督がそのまま描き出すことが評価されてこなかった。つい、『相棒』の要は脚本だと思ってしまうが、実際には脚本を作ること、そしてそれを世に届けることには困難があり、それをなんとかしているのが監督なのだろう。無意識に『相棒』のクオリティを脚本家に還元してきてしまったが、監督や様々なスタッフの果たしている役割を想像するべきだったと反省した。監督については、それがドラマ制作において絶大な権力を持っていることを当然と考えるあまり、反対にその役割を想像してこなかった。

 

・今回の相棒の再評価

 というわけで、放送直後に太田さんのブログを読み、改めて今回の相棒の意義について考えた。最初に見たときは、太田さん特有のいつものストーリーが繰り返されているのだと思った。

 だが、正月という特別な時間に、非正規社員という不安定な職を生み出す政治の不正義を明確に告発する今回のストーリーは、それだけで十分に意義があったと思う。終盤の右京さんと政調会長とのやり取りでの右京さんのセリフは、露骨に現在の与党への批判だった。一警察官という立場を超えて、あまりにストレートに表現していたため、戸惑ってしまった。だが、その露骨でストレートな政治批判をドラマで表現することにこそ、正月に『相棒』というドラマを作ることの意味があったのではないか。明確に現在の与党の政治を否定する右京さんの言葉は確かに力強かった。

 それは、それだけ現在の状況が逼迫しているということだ。悠長なことを言っていられないほど、社会のほころびが、現実の人々の痛みとして現れている。私も将来の不安定な学生であり、その不平等な制度の中に放り込まれつつある人間の一人だが、安易にネオリベラリズムの競争原理と能力主義、努力主義に追随するのではない生き方がしたい。

 

 

・その他

 ストーリーについてはもうたくさん書いたと思うので、あとは感想のメモを…

 

・プラカードの表現については、相棒が始まる前に太田さんのブログで見ていたので心構えができてた。プラカードという単語と、脚本にない、というところで、すでにほんのちょっと不穏な感じがしていた。

 

・冠城くんの実家がそこそこ大きくて綺麗だったので、イメージ通りで安心した。お姉さんはピアノの先生。これで歴代相棒4名とも皆、おぼっちゃまってことになりますよね…?(神戸尊は実体が分からないけど、本籍が田園調布で祖父が骨董が趣味だったんだから…ねえ?)冠城くんの子供部屋も最高にイメージ通りだった。少年時代もイメージ通り。

 

イッセー尾形氏と子役氏の演技が本当によかった…。イッセー尾形氏のアドリブに翻弄されていなかった子役氏の演技が素晴らしかったので…。

 

・2回目で、色々なところに細かな伏線がたくさんあったことに気付いた。スケボー買ってあげるよ(脅し取った金で)、とか、国家公務員法96条とか…。他にもあったけど忘れた。冒頭のフランス料理のレストランで、厨房の料理人からウェイター、そしてテーブルへってカメラが流れて行くのも、料理を提供する「労働者」の仕事を強調していたのかなと思ったりもした。

 

・拗ねる甲斐さん、すぐに機嫌を直す甲斐さん…可愛いおじいちゃんって感じ

 

・長官官房付きの人たちは、仕事納めに上司と食事しなきゃいけないってことになっているんですかね(長谷川宗男の食事にいやいや付き合う不貞腐れた神戸尊を思い浮かべてたよ)

 

・社氏のスクリーンでの登場が面白かった。これからもああいうアニメみたいな感じで出てくるのかな。

 

・今回のことは、太田さんが相棒を降板する可能性もあることを示唆しているのでしょうか…(不安)。その場合も太田さん「が」降りるのか、『相棒』側が降ろすのか分からない感じがします。